加藤良夫略歴 |
「医療被害防止・救済システムの実現をめざす会」(仮称)準備室代表 |
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なぜ医療過誤・患者の人権なのか | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は13才の時に父を「肺炎」で亡くした。母は医者の「見立」の悪さ、抗生物質が使用されなかったことを悔んでいた。皮肉なことに父は医者であり、母は助産婦資格を有していた。(祖父や叔父も医者であり、私はいわば「医者の家系」に生まれたと言ってよい)
父の死後、母が助産婦として働くようになり、私と兄(現在は医師)を養育した。私が大学生の時に、その母が不幸なことにスモン病に罹患した。スモンは整腸剤として用いられたキノホルム製剤による薬害である。発病当時は「奇病」といわれたり、「ウイルス説」が報道されたりして、自殺者も相次いだ頃である。東京の下宿先で発病を知らせる母の手紙を読み私は泣いた。 私は名古屋で実務修習をした。愛知県にはスモンの患者会(当時は「希望の会」という名称であった)があり、私はボランティアとして、文集作りや、重症者慰問等の活動にかかわった。難病団体連合会の会合にも参加し、多くの患者さん方の実情の一端を知った。患者さん達は、異口同音に医療が冷たいとか福祉に血が通っていないと不満をもらし、私に対し、弁護士さんになったら患者・弱者の味方になって頑張って欲しいと期待をかけてくれた。私は(公害事件や刑事事件等にも関心があったが)このような期待にも応えたいと思い、何人かの先輩弁護士に医療裁判に関心があることを話した。 私が医療過誤・患者の人権に深くかかわりをもつようになった背景には以上述べたような事情が存在する。いわば宿命的な面があると言って良いであろう。そして弁護士となって手がけた医療過誤事件の悲惨さ、不条理さが私を突き動かし、ついには(1986年夏以降) 「これ一本でいく」 (医療過誤以外の事件を引受けない)という決意をするに至るのである。弁護士は「事件」により鍛えられ育てられる。私の場合どのようないきさつでどのような「事件」と出会ってきたかを紹介したい。 |
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「専門性」を育てた「事件」との出会い | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弁護士登録をして最初に手がけた事件は、乳幼児の大腿部に筋肉注射を濫用して生じた大腿四頭筋短縮症被害児のケースであった。これは、私が医療裁判に関心を持っているという話を聞いておられた先輩弁護士が一緒にやらないかと声をかけてくれたのである。この事件は、聴き取り調査・証拠保全から始まって、提訴準備のための調査・研究、そして提訴、一審判決、控訴を経て1991年3月に和解で終了するまでの間、実に17年間を費やし、私の弁護士活動を貫く一本の柱となった。
弁護士活動を貫くもう一本の柱となっている事件がある。それは、種痘や百日咳ワクチン等の予防接種により脳障害を負ったり死亡したりした方々のケースである。これも、私が医療裁判に取り組みたいという意向を持っていることを知っていた修習指導弁護士が弁護団結成にあたり声をかけてくれたものである。この事件は、1976年(昭和51年)のはじめに提訴し、一審判決を経て今月なお控訴審係属中である。 私がはじめて勝訴判決を得た医療過誤訴訟は、医師が腸閉塞を虫垂炎と誤診したために少女が死亡したケースであった。これは調査嘱託弁護士の推薦により法律扶助協会から委嘱されて私が代理人となったものであった。 このほかにも弁護士から紹介されるケースがあって徐々に医療裁判が増えていった。医療裁判を通して、より多くの医療被害者が泣き寝入りを余儀なくされていることが強くうかがわれ、被害救済のためには医師その他の医療職と弁護士とが協力し合って常設の相談窓口を設けることが必要であると痛感された。1975年(昭和50年)8月には朝日新聞の「論壇」に医療被害者からの提案が掲載され、私はこの提案を受けて種々検討のうえ1977年(昭和52年)10月に「医療事故相談センター」を開設した。(これについては弁護士法上の疑義等も提起され、その後発足した「医療過誤問題研究会」の相談窓口の名称としてその存立が許され今日なお活動を続けている)このことが新聞等で大きくとりあげられ、相談申込が殺到した。この活動によって多くの医療過誤事件に直面し、研究会メンバーと共に苦闘することとなった。 このようにして私は幸いなことにすぐれた先輩や指導者にめぐりあい弁護士登録直後より今日に至るまで、まことに骨の折れる困難な「事件」と数多く出会うことができ、一つひとつの「事件」により、鍛えられ育てられてきたのである。「医療過誤・患者の人権」というテーマはまことに幅が広く奥行も深い。患者中心の医療を目指す壮大な営みを「ライフ・ワーク」と断言できるようになったことに全く悔いはなくしみじみ感謝している。 |
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医療過誤訴訟の「三つの壁」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
医療過誤が専門領域と見られているのは、通常事件に比し特異的な困難さ(後に述べる「三つの壁」)がつきまとっているからであろう。この困難さがあるため、医療過誤事件は潜在的には数多く存在しているにもかかわらず、この問題に積極的に取り組む弁護士の数は限られ、次第に専門化傾向を持つことになる。
原告患者側弁護士は医療過誤訴訟に取り組む際、「三つの壁」に直面する。 第一は「専門性の壁」である。医学・医療それ自体が高度に専門化した領域であり、医療被害者である依頼人から相談を受ける際、ポイントとなることがらを的確に聴き取るためには、弁護士の側にある程度の知識が必要である。例えば出産時の事故のケースであれば「母子手帳」を持参してもらい妊娠・分娩の経過を見ながら聴き取りを進めていくが、妊娠、分娩に関する知識がないと的確な発問ができない。そこで「専門性の壁」を克服するためには、具体的なケースをとおして、勉強するほかはない。成書(教科書)や専門雑誌を読んだり、協力して下さる専門医のところに足を運び教えを受けたりする必要がある。 第二は「密室性の壁」である。手術室や病室は密室であり、その中で生じた医療事故については、事実経過を把握すること自体が容易ではない。患者本人が手術室で心停止をしたような場合には、麻酔記録や手術記録をもとに検討せざるを得ない。(ところがこれらの記載は、被告の立場に立つ担当医が、事故後に記載することもあり、常に真実が記載されているとは限らない)しかも患者側は診療上作成された資料のコピーを医療機関から自由に交付してもらえるという立場にはない。「密室性の壁」を克服するためには、カルテ等の一切の資料の写を証拠保全手続により入手する必要がある。こうして入手したカルテ等をじっくり検討することにより事実経過を明らかにしようと努めるのである。(しかし決定的に重要なレントゲンフィルムが既に廃棄されていたり、カルテ等が書き変えられていたりすれば、真実を明らかにしていくことは著しく困難ということになる) 第三は「封建性の壁」である。医療の世界では医療過誤に関し相互批判の精神は乏しく、同僚かばいの傾向が強い。このため、患者側に有利な見解を隠密な形では聞くことができても、鑑定意見書や証言の形では得られにくいのである。(しかも医療過誤訴訟においては、原告側は不当にも著しく困難な立証責任を負わされてしまっているのが実情である) 「封建性の壁」を克服することは容易なことではない。個々の医師の意識が変わらなければならないし、医療界の体質自体が変わっていかなければならないからである。それでも、徐々にではあるが、勇気をもって法廷で真実を証言する医師もあらわれているし、医療過誤訴訟がもつ社会的役割についての認識も広がりつつある。医師から協力を受けるためには足を運び、趣旨を話して積極的に働きかけていく必要がある。 以上、医療過誤訴訟の「三つの壁」について述べた。この「三つの壁」は、すべての医療過誤訴訟に共通している。はじめて医療過誤訴訟と取り組もうとする弁護士にとっても、既に何件も担当してきた弁護士にとっても困難な壁であることに変わりはない。ただ、何件も医療過誤訴訟を担当する過程で知識や方法においてそれなりの蓄積が生ずるし、人的なネットワークが広がっていくことになる。これまでの自分の過去をたどってみると訴訟活動以外にもより積極的に専門的な力を身につけていくための努力もしてきたように思う。以下その道程を具体的にふり返ってみたい。 |
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「専門性」を鍛えるために | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
既に述べたとおり、弁護士は「事件」により鍛えられる。数々の困難な「事件」と出会うことができたこと、その都度、優秀な専門医の懇切丁寧な教えを受けることができたことが今日の基礎を作っている。このことを第一に踏まえておきたい。
私達は、1978年2月に誠実な医師らの協力のもとに「医療過誤問題研究会」を作り、定期的に例会を持ち、手持事件についての症例検討会、専門家を招いての学習会、医療過誤の判例報告会等を行なってきた。事件解決後に依頼人が研究会に寄付を申し出てくれたこともあり、折々に医学図書の購入もしてきた。 各地に医療過誤訴訟と取り組む患者側弁護士のグループ(医療問題研究会・弁護団)が存在している。これら弁護団、研究会は毎年一回秋に経験交流会を開いている。毎年三つか四つ位のテーマを決めて情報交換や研究をしている。この交流会に積極的に参加し勉強をしてきた。 1981年(昭和56年)より九年間、私は名古屋大学医学部病理学教室の研究生を経験した。病理解剖に立ち会ったり、医学部の学生と共に講義を受けたり、医局のカンファランスに同席したりして見聞を広めることができた。同門会や、医局旅行にも参加し、病理医らの考え方や率直な意見を聞くことができたことは幸いであった。 名弁人権委医療部会において、体外受精、男女の産み分け、老人医療等について勉強した。また、日弁連人権委第四部会において、脳死と臓器移植、精神医療、エイズ等について勉強した。こうして委員会活動の中でも「患者の人権」にかかわる様々な問題を考える貴重な機会を得た。 1979年(昭和54年)にはアメリカの医療過誤専門弁護士と会う目的で、また1981年(昭和56年)には、ニュージーランドの事故補償法を学ぶ目的でそれぞれ出向いた。1986年(昭和61年)にはシドニーで開催された「保健・法・倫理に関する国際会議」に参加し、医療過誤と患者の人権について発表した。ツアーを組んで参加したため昼食、夕食の時間を利用して何人かの有力な学者と会合を持つことができた。1989年(平成元年)にはロンドンで第二回目の国際会議が開かれ、友人達とともにツアーを組んで参加し、医療事故情報センターについて発表した。ここでもプライヴェイトミーティングを開くことができたし、ホスピス等を見学することができた。1990年(平成二年)には、日弁連の北欧社会保障調査団に加えてもらい、スウェーデン等の老人福祉施設等を見学してきた。 日本医事法学会、社会医学研究会、日本プライマリ・ケア学会、生命倫理学会等に所属し、何度か学会発表もしてきた。また我国で開催されるバイオエシックスの国際会議等にもなるべく参加するようにしてきた。 看護学校や病院、学会等からの講演依頼や、医療雑誌社等からの執筆依頼、座談会出席依頼等にはなるべく応じてきた。自分の勉強にもなるし、多くの医療職の人達とめぐり会い意見交換ができる貴重な機会でもあった。 1981年に名古屋の市民グループ「医療を良くする会」ができた。これに深くかかわり健康保険制度や救急医療について学習をしたり、市民向けの講演会やシンポジウムを企画したりしてきた。1984年には、患者の権利宣言運動にかかわり、名古屋での集会を準備した。 医療に関する新聞記事を事務所においてファイルしている。医療に関するテレビ番組もなるべく見るようにしてきた。新聞記事で知った医師に連絡をとり、お会いして教えを受けたこともある。このように私は訴訟活動ばかりではなく幅広く積極的に行動してきた。このことが、「専門性」を鍛えるために大いに役立っていることは明らかである。これからもより一層活動的でありたいと願っている。 |
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医療事故情報センター | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最高裁の調査によると医療過誤訴訟の一年間の新受件数は約380件であり、裁判上の和解によって解決する割合は約四割であるが、判決となった場合の原告勝訴率は約二割という統計がある。一般の民事事件に比して原告勝訴率が著しく低い。それはなぜであろうか。一口で言うならば対等の土俵で勝負ができていないということである。
我国で争われている医療過誤訴訟は約1,800件である。一人何件も担当している弁護士も何人かはいるのでそのことを考慮すると患者側代理人として訴訟活動をしている弁護士は約1200人以上いると推定される。そのうちの大半は研究会や弁護団に属することなく孤立した状況にあると予測できる。患者側に有利な文献や鑑定書、また類似の示談事例あるいは当該事案について色々と助言をして下さる協力医等に関する「情報」がどこかできちんと集約され、生かすことができるならば医療被害者の法的救済を図るという点で前進が期待されよう。また医療事故には再発事故防止のヒントも含まれており、事故に関する情報が医療現場にフィードバックされていくならば、診療レベルの向上等にも役立つことになる。このような考えに基き1986年10月に「医療事故情報センター設立準備会」が発足し毎月センターニュースを発行するほか、鑑定書集を発行するなどの活動をしてきた。三年間の準備期間を経て1990年12月に全国の患者側弁護士111名(正会員)の結集によりセンターは正式発足し「症例報告集」を発行したり協力医を紹介したりして活発に活動を展開している。 医療事故情報センターは、各地の患者側弁護士と協力医を含むヒューマン・ネットワークづくりを通して医療過誤裁判の困難な壁を克服することを実践課題としつつ医療における人権確立、医療制度の改善を図ることなどを目標にかかげている。医療過誤の問題は人権問題にほかならない。医療事故情報センターが十分にその機能を発揮し、地道な活動の中から豊かに発展していくことができるかどうかは、「医療過誤・患者の人権」の将来に重要な意味を持っている。一歩一歩良い仕事を積み上げつつ、医療側の人々にも共感の輪を広げて行きたいと思っている。 |
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( 「患者側弁護士のための実践医療過誤」加藤良夫著ふれあい企画1992.6刊 より ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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